第4号 |
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戦後60年を迎えて 学校法人 仙台育英学園 副理事長 秀光中等教育学校 仙台育英学園高等学校 校長 加藤 雄彦 |
いまから60年前の昭和20年7月10日未明、太平洋戦争末期米空軍B29爆撃機123機の大編隊が仙台に来襲し、10,691発(912トン)の焼夷弾を投下しました。その6年前、外記丁に当時としてはハイカラな校舎を完成し、創立者 加藤利吉先生の思いが集約されていたその校舎も木っ端微塵に破壊され、焼け落ちました。利吉先生は校舎の焼け跡に呆然と立ち尽くして、学園創立からの40年間の苦労を思い起こし、この世の非情を嘆かれたと話されたことがあります。さらに、戦後復員してきた先生の実弟 利喜松が「兄さん、いっそ廃校にしたらどうだね」と提案があったとき、仙台育英の教育理念(建学精神)は永久不変で、それを大切にできる人びとがいれば、学園は継続できると反発されたそうです。青空教室は昭和24年3月まで続きましたが、至誠天上まで通
じ、いまの宮城野校舎が生まれました。 あの空襲で廃墟と化した町並みは、60年の時を経て、美しき杜の都として再生しました。7月10日、この緑深い街路を本年卒業のサミュエル・ワンジル(トヨタ自動車九州入社)が疾走し、世界歴代2位 の大会新記録(59分43秒)で第15回仙台国際ハーフマラソンの優勝者となりました。多くの市民の声援を受けながら、本学園卒業生が国際大会の花を飾ったことはたいへん名誉であり、本学園が60年かけてきた戦後復興を象徴する快挙と考えます。おそらく、利吉先生の威厳のあるお顔が少しほころばれたのではないでしょうか。 利吉先生は若松で生まれ、会津戊辰戦争とその後の西軍、特に長州藩の非人道的な戦後処理に苦しめられました。さらに、日露戦争では傷痍軍人となり、官尊民卑の厳しい風当たりがあったにもかかわらず設立した育英塾、私立学校振興助成法のない時代に仙台育英中学校を自治進取の気概のもと、優秀な経営感覚を持って発展させてきました。加えて、先の世界大戦による人的物的損害を不撓不屈の精神と至誠力行の行動力で乗り越えられて来た様々なご苦労を思うとき、学園に脈々として流れてきたアイライオンスピリットがもたらした出来事と感じたのは私一人だけではないと思います。 創立者 加藤利吉先生が創られた仙台育英学園の教育理念(建学精神)は永久不変です。われわれ教職員は利吉先生の教えを学ぶ私学人として、この学園で日常の多くを過ごし、少なくとも学園の教育現場においてそれを実践していく義務があります。 現在の学園経営では、時代の流れ、社会の要望・現状そしてそこに生きる生徒の事情に対応して、教育目的を策定し、建学精神と照らし合わせて整合性を確保しながら教育活動の実践を求めています。よって、教育目的は時代の要請に基づいて変遷し、修正されます。 教育現場においてはその教育方法はあまねく幾通りも存在します。その何通りもある選択肢のなかから、生徒にとって最善のものを選ぶ努力を教職員は実施しています。 去る5月22日午前4時15分ころ第11回さつき祭ウォークラリー中に発生した交通 事故を周囲の方々は不慮の事故として学園に対してお悔やみとお励ましを下さっています。父母教師会、同窓会も物心両面 で学園を支えてくれています。このような数々のご高配を賜れるのは学園が100年もの間、利吉先生の教えを忠実に守り、実践してきたからこその「のれん」だと思います。それは過去の努力の成果 の賜物なのです。 裏を返せば、明日からの未来に関しては何の保障もないということです。明日からのことはいままで以上に、「至誠・質実剛健・自治進取」の建学精神を理解し、具現化していかなければなりません。3人の生徒の命はどのようなことをしても戻ってきません。万全の態勢で臨んだ学校行事はその尊い命を救うことはできなかったのです。われわれ教職員はこの事実を真剣に受けとめ、教育方法の選択・実施過程における問題点を徹底的に分析し、ふたたび悲劇が起こらないよう猛省しなければなりません。また、外部からの批判には甘んじて受ける覚悟が必要です。如何なる釈明も意味がありません。3人の生徒たちは二度と仲間たちと楽しい有意義な学園生活を過ごすことができないからです。 彼らが今、何を考え、何を求めているのか、最善策を探していかなければなりません。それは利吉先生と向かい合いながら、戦後60年、創立100年を迎えるなかで、これからの仙台育英学園の進むべき道を求めていくことと同じことだからです。 |
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