第10号
 

 
3・11 そのとき多賀城校舎では
   

 3月11日午後2時46分、多賀城校舎では卒業した高校3学年と秀光6学年を除く生徒たちが授業をしていました。最初は小さな揺れ、そのうち突然経験したこともないような大きな揺れが起こり、それがしばらくの間続きました。生徒は机の下に潜りましたが机の脚をしっかり握っていても転がりそうな激しさで、一瞬建物が倒壊するのではないかと恐怖を覚えるほどでした。
 ようやく揺れがひとまず納まったところで、全員中庭に集合させ様子を見ていましたが、雪が舞うような寒さの中、ラジオから突然「仙台湾10mの津波」という音声が響いてきました。余震による建物被害を心配して中庭に避難させたものの、今度は津波の心配によって生徒全員をウェストウィング3階に移動避難させることとしました。
 夕闇が迫り、生徒を帰宅させたくとも交通機関はマヒ、通信手段も不通で家庭との連絡はとれない、そのうち津波で学校付近の田んぼや道路が冠水し始めました。校長先生の陣頭指揮の下、発電機による最小限の照明の確保、水や食糧(菓子類)、毛布などの配布、十分とは言えないまでもできるだけのことをしました。
 寒くて暗く長い夜が始まった中、沿岸部の悲惨な情報が次々と伝わると、職員・生徒の中に暗澹たる気分が伝わっていきました。近くの石油基地から火の手が上がり、時に爆発音を響かせながら一晩中燃えていた火災も恐怖をあおりました。
 共に一夜を過ごした生徒は、全体で600名を超えましたが、不平不満を言うこともなく、不自由をよくしのぎ、恐らく一睡もしないで朝を迎えました。
 翌朝、シャトルバスによる生徒の輸送計画を立て、何とか生徒を送り出したときにはひとまずほっとした気持ちとともに、どっと疲労感に襲われたのは私一人だけではなかったと思います。しかし、シャトルバスを送り出したものの、家まで辿り着けず戻ってきた生徒は50〜60名に上り、寮での避難生活は21日まで続きました。
 本校には、この度の被災に対し、韓国のスポーツ用品メーカーはじめ、各方面から義援金や援助物資が寄せられています。心から感謝すると共に、今こそ「逆転の仙台育英」のモットーどおり、不屈の精神で復興を成し遂げ、今まで以上の学校にしていきたいと職員一同心から願っています。

英進進学コース教頭
鈴木 信男

 
   
 
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