2004 TOPICS 国語弁論大会
   
 

「違う」ということ
秀光2年 渡辺くん(福島県伊達町立伊達小出身)

   
 

 僕は、小学六年生の時、歩くのもつらい程の成長痛と、中耳炎の悪化のため、一年間、体育の授業を休みました。通 院していた病院の先生にも「くれぐれも無理をしないように。今少しがまんすれば、治ったときちゃんと動けるようになるから。」と言われました。しかし、いざ「見学」という形で体育の授業を受けてみると、僕に掛けられる声の中に「何でだろう?」と思われることがありました。

 まあ、大抵「かわいそうに、大変だね。早く良くなってね」という言葉が70%ぐらいですが、残り30%は、悪気のあるなしは別 にして、「どうしてやらないの?」という言葉でした。同級生が言う場合は、そのままの意味で、包帯などを巻いているわけでもないのでどこが悪いのかわからず聞いてくるだけなので、僕も「実は…」と説明すると「ああ、そうなんだ」と納得してくれました。これは別 にどうということはないのですが、一番困ったのは一部大人達のこういう問いかけです。それに対して僕が病気の説明をすると、必ず返ってくる答えが「そんなにしていつまでもさぼっていると体がなまってしまうぞ。少々のことはがまんしてみんなと同じくやっていないと、ついていけなくなるから」という言葉です。別 にやりたくなくてさぼっているわけではないのに、いつも言われてしまうのです。「みんなと同じく」したい気持ちはいっぱいあるのに、止むを得ない理由でがまんをしているのがどうしてわからないのだろうといつもいつも思っていました。そして、この言葉を繰り返し言われ続けると、いつの間にか「みんなと違うことは悪いこと」と思うようになり、神経質なくらい気にするようになっていったのです。

 何をしても自分に自信が持てず、不安でたまらなくなり、無理をしても他の人と合わせなければと気をつかい、しまいには胃をこわしてしまいました。しかし、どうあがいても体の調子がもどるまでは授業を受けられないので、あきらめた気持ちで見学をしながら僕は「違う」ということの意味を考え続けました。

 確かに、団体行動において、勝手なことをするのは、他の人達に迷惑をかけるため、許されません。しかし、そこにやむを得ない理由が生じる場合、それが正当なことであれば列をはずれ、他の人達のじゃなにならない位 置で立っていることはかわまないように思います。かえって、僕に声をかけた一部の大人たちにしたがって、無理をしながら「皆と同じく」しようとすれば、体がついていかなかったり、途中でついていけず、逆に皆に迷惑をかけたりしてしまうこともあります。

 たぶん、「皆と同じ」イコール「正しいこと」と思っている人達は、自分と違うものを認められない気持ちが強い人たちだったのではないのでしょうか。それとも、他と同じという行動の中に、自分の心の安定をたもっていたかったのでしょうか。

 進学によって、僕は、日本国中様々な地域から生徒が集まっているこの学校に入学し、寮生活を体験し、「違う」ことから始まる人間関係を知りました。「違う」ということから始まるひとつひとつの付き合いの中に少しずつ「似たような部分」が見えてきます。でも、「違う」という前提から始まっているため、相手をしばろうとしないし、自分を通 すときも、その加減が大事かなと思うのです。

 今、僕は、とても楽しい日々を過ごしています。六年生のころのことも、冷静にふりかえることができるようになりました。あの頃は、本当にいやな事でしたが、今となってみれば、「違う」ということをじっくり考えるための良い経験だったような気がします。そのことを今の仲間たちが教えてくれたのではないでしょうか。これから、少しずつ大人になっていく中で、「違う」ものに対して常に静かに見ていく目を持ち続けたいと思います