飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者
全国連絡協議会
幹事

井上 保孝 井上 郁美
   

 本日、仙台育英学園高等学校『5.22 I-Lion Day』にお招きいただきました井上保孝と郁美でございます。千葉県千葉市に住んでおります。つたない話ではございますが、しばらくの間、私たちが遭ってしまった事故のこと、感じたこと、そして今行っている活動についてお話をさせていただく機会を頂戴いたしましたので、私たちの話を聞いていただいて、一人ひとりができること、飲酒運転を撲滅するために、そして交通安全、一人ひとりの命を守るために何かヒントになることをつかんでいただければと思います。

 それでは私、井上保孝のほうからお話をさせていただきます。

 あれは、1999年、平成11年11月28日、今から7年6カ月前のことです。私たちは前日急に思い立って、箱根に一泊の家族旅行に行きました。前日の夜は子どもたちと温泉に浸かり、当日の朝、芦ノ湖で遊覧船に乗り、紅葉を楽しみました。そして昼食後、早めに現地を発って、千葉の自宅のほうに向かって走り出しました。
 東名高速の東京料金所を過ぎて、首都高速の用賀料金所にさしかかる手前で、私たちの乗用車は11トン大型トラックに追突されました。私たちの乗用車と大型トラックはくっついたような状態で約50メートル、ガガガガーッと押されました。押されている間に炎が出ていたのでしょう。車が停まったときには炎で包まれていました。運転していた郁美はかろうじて自力で脱出することができましたが、後部座席で眠っていた長女・奏子(かなこ)当時3歳7カ月、次女・周子(ちかこ)1歳11カ月の二人は逃げることができず、力尽きました。「熱い」という言葉を残して。助手席にいた私はかろうじて引っぱり出されたのですが、背中全部と左腕に大やけどを負ってそのまま救急車に乗せられて救急病院に運ばれ、そして緊急手術を3度受け、3カ月半入院しました。そしてその後も入退院をくり返し、現在も週に1度、時間をつくっては、機能回復のリハビリに通っています。

 運転していた大型トラックの加害者運転手は海老名サービスエリアというところで昼食休憩をとりました。そのときに朝、フェリーを降りるときに買い込んでいた缶入り焼酎飲料を飲み干しました。それだけでは飲み足りず、前日の夜、高知の自宅を出るときに持ち込んでいたウイスキー一瓶700ミリリットルの瓶のうち約6割を寝酒と称してフェリーの中で飲んでいました。でも4割残して持っていました。その4割を全部飲み干してしまいました。自分ではアルコールの影響が残っていることを自覚しながらも1時間仮眠をとっただけで、ハンドルを再び握って東京方面に走り出しました。
 東名高速の広い3車線を全部使うようなジグザグ運転を繰り返しました。周りのドライバーが「あのトラックは危ない」という情報を11件寄せていました。しかしながら、誰もそのトラックを停めることができずに、私たちの乗用車に追突してしまいました。現場では呂律(ろれつ)の回らないフラフラした加害者運転手の姿が、テレビカメラに収められていました。

 加害者運転手は現場で警察官に逮捕され、飲酒検知をされたところ、呼気1リットルあたり0.63ミリグラムという強いアルコールが検出されました。そして加害者運転手は検察庁に送致され、東京地方検察庁は加害者運転手を業務上過失致死傷罪と酒酔い運転(道路交通法違反)の罪で、東京地方裁判所に起訴しました。そして裁判で懲役5年の求刑をしました。ところが、東京地方裁判所の裁判官はこの加害者に対し、懲役4年の実刑判決を言い渡しました。
 この判決公判の日、私たちは司法関係者から、このようなことを聞かされました。「業務上過失致死傷罪で懲役4年というのは非常に重い」。そしてこうも言われました。「求刑が懲役5年で判決が懲役4年というのはいわゆる『八掛け判決』といって、満額に等しい。おそらく検察官は控訴しないでしょう」。70年、80年と生きられたであろう二人の命の重さに比べて、私たちは「なんと刑罰が軽いんだろう」と思いました。そして、検察官に控訴してくれるよう訴えました。東京検察庁は異例の控訴をしてくださいました。こうして、東京高等裁判所での控訴審が行われることになりました。しかしながら高等裁判所での控訴審の判決は、控訴棄却、つまり、「懲役4年の判決を正しい」という判決を下して、加害者に対して懲役4年の判決が確定してしまいました。

 2度にわたる刑事裁判を通じて、疑問に思ったことが2つあります。1つは、加害者運転手は事故の日初めて飲酒運転をしたわけではなく、過去十数年にわたって、お酒を飲んで運転していたという、常習の飲酒運転手であった。その常習の飲酒運転手が事故を起こして人を殺めても業務上過失致死傷罪、つまり不注意で人を殺めてしまったという罪でしか問われないということ。
 そしてもう1つの疑問。私たちの娘たちは後部座席でただすやすやと眠っていただけに過ぎません。にもかかわらず命を落とさなければならなかった。私たちから見れば、殺人罪と何ら変わりはありません。殺人罪であれば無期懲役だってあります。死刑だってあります。しかしながら、業務上過失致死傷罪の最高刑は懲役5年、人を何人殺めても懲役5年が最高刑です。

 私たちの事故から約半年後、私たちは一人のお母さんに出会いました。このお母さんは母ひとり子ひとりで大切に息子さんを育てておられました。その息子さんが憧れの早稲田大学に入学し、入学式に出ただけで一度も授業を受けることもなく、夜、友人と2人で歩道を歩いているときに後ろから来た暴走車にはね飛ばされて、2人とも即死するという事故に遭いました。この暴走車というのは飲酒運転、スピード違反、無免許運転、無車検、無灯火の車でした。お母さんは警察署で、「このような加害者は死刑でしょう?」と訊ねたら、警察官は、「いいえ、お母さん、車に乗って人を殺めたら、業務上過失致死罪というのが適用されます。その最高刑は懲役5年です」というふうに聞かされました。
 お母さんは「今の日本の法律は人の命の重みが反映されていない。このような法律は変えてもらうしかない」、こう言って行動を起こされました。私たちも全く同じ気持ちでしたので、一緒になって活動に参加しました。これが刑法第211条、業務上過失致死傷罪の法定刑を見直す署名活動でした。私たちも生まれて初めて街頭で署名活動に参加しました。東京のJR町田駅前でした。道行く人たちにマイクで、「私たちは東名高速で酒酔いトラックに追突され、娘二人が焼死し…」と呼びかけますと、「ああ、あの事故はひどかったわね、でも刑罰は軽かったわね」と言ってたくさんの方々が署名をしてくださいました。ある人は「私も署名活動だったらお手伝いできるかもしれない、その用紙をください、近所を回ります」。こう言って、署名用紙を持って行ってくださいました。
 そしてこの日の署名活動の様子はテレビや新聞で報道され、全国に広がっていきました。
 街頭署名活動もJR町田駅前に続いて、私たちの地元の千葉、大阪、上野公園、浜松、そして岩手県盛岡市で、同じような想いをする交通事故遺族の方々と一緒になって署名活動を展開しました。そして全国から送り返されてきた署名数は374,339名に達しました。私たちはこの署名簿を4回に分けて、当時の法務大臣に直接手渡しました。
 そしてこの署名簿を手渡している間に私たちの想いが国に届きました。法務省で刑法改正の検討がなされていました。2001年の秋の臨時国会で刑法改正案が国会に上程されました。衆議院を無事に通過したあと、2001年11月28日、参議院本会議で、危険運転致死傷罪という新罪を含む刑法改正案が全会一致で可決成立いたしました。奇(く)しくもこの11月28日というのは私たちの娘たちが私たちのもとから旅だった日でした。これも娘たちがいつまでも自分たちのことを覚えていてほしいという精一杯の自己主張をしているのではなかったかと私たちは勝手に解釈しています。

 この危険運転致死傷罪というのは、みなさんご存知だと思いますので詳しくは述べませんが、飲酒運転や悪質な交通事犯に対しては過失犯ではない、傷害罪に準ずる故意犯として処罰する、そしてその最高刑も人を殺めた場合は15年以下、あるいは傷つけた場合は10年以下というように厳罰化された法律です。私たちが疑問に思っていた2つの点が形になった法律だと評価しています。ちなみに人を殺めた場合、15年以下というのは、その後の法改正で20年以下、人を傷つけた場合15年以下、とさらに厳罰化されて、2年前の仙台育英学園高校の事故の加害者に対してはこの最高刑が科されたことになります。
 私たちはこの危険運転致死傷罪が適用されるような事件・事故は起きてほしいとは思っておりません。しかしながら、悪質・危険な事件・事故で悲惨な犠牲者が出たらこの法律がどしどしと適用され、「悪質・危険な運転をすればこれだけ厳しい罰則が待っているんだ」ということをみんなが知るようになって運転に気を付け、法が抑止力となってくれることを願って、私たちはその後もこの法律の適用を見守っているところです。

 ところが、この法律が出来てから確かに飲酒運転そのものの数はぐんと減ってきています。しかし一方でひき逃げが急増してしまっています。危険運転致死傷罪ができる前の2000年に比べて5年後の2004年の数字で言いますと、1.4倍にも増えています。そして危険運転致死傷罪の適用件数も減少してきています。これは、
お酒を飲んで運転して事故を起こし、現場から立ち去ってしまって、アルコールが抜けてから自首したり、あるいは逮捕されたりしても飲酒運転についてその事故当時どれだけアルコールの影響があったのかわからなくなってしまって、結果的に飲酒運転の罪に問われないで業務上過失致死罪、そして道路交通法の救護義務違反、いわゆるひき逃げ、この2つの罪で処罰されるケース
あるいは、お酒を飲んでいたことを隠すため、事故の直後にコンビニに駆け込んでお酒を飲んでしまって、気が動転したから気を静めるため事故後にお酒を飲んだとごまかす「重ね飲み」と言われる輩が増えている
あるいは、昨年福岡で小さい子どもが3人海に転落させられて水死してしまうという悲惨な事故がありました。あの事故の加害者は現場から逃げて友人に水を持ってこさせ、大量の水を飲んで、アルコール検知のときには水で薄まっているせいで結果的にはアルコールの数値が少なく出てしまった
 そういう悪質な例が目立つようになってきています。

 逃げたほうが刑が軽くなる。いわゆる「逃げ得」、そういったものをなくしてほしい、そして危険運転致死傷罪が持っている抑止効果を取り戻してほしい、そういう思いで、軽い罪で加害者が処罰された全国の被害者遺族が手を取り合って署名活動をしています。今年の1月27日には仙台育英学園高校の皆さん方が東京の上野公園に駆けつけてくださいました。先生方、生徒、一緒になって、署名活動に協力してくださいました。そして、この5月19日、20日、仙台で仙台育英学園高校の皆さん方と一緒になって飲酒運転撲滅、「逃げ得」をなくす署名活動に取り組みました。たくさんの先生方、生徒の皆さん方が参加してくださいました。一日目は雨という天候が悪い中、3,725名、二日目には9,393名というたくさんの署名を集めることができ、合計13,118名の署名を集めることができました。これも皆さん方の思いと、活動が大きく広がってきている証拠だと思っています。これからも飲酒運転撲滅のために法改正を目指して頑張っていきたいと思っています。

 一方で、いくら法改正ができたとしても、あるいは厳罰化ができたとしても、法律の改正だけでは飲酒運転の撲滅・根絶にはまだまだ不十分だと言われていますし、私たちもそう感じています。皆さんご存知のように自動車というのは「自ら動く車」と書きますが、車が勝手に動くわけではありません。ハンドルを握る一人ひとりが、命の大切さ、人の命は奪っても奪われてもいけないのだということを、絶えず再認識しながら運転しないと、事故は無くなっていきません。そういう想いで私たちは命の重さを訴える活動も並行して行っています。 

 それでは今から郁美が続けてお話をさせていただきます。


 皆さんから見ていただいて舞台の右側のほうに、娘たちの等身大の人型を持ってまいりました。いつも私たちと共に全国各地についてきてくれています。実はこの等身大の人型は奏子・周子だけではなくて、「理不尽に命を奪われてしまった人たち」をキーワードに、全国各地で「生命(いのち)のメッセージ展」という名前のついた展示会を、刑法改正の署名活動をしている最中から開催してまいりました。今日は底上げしてもらって舞台に乗せてもらっているのですが、通常は床に置いています。ですから皆さんの腰までも届かないような小さなパネルで、軽い素材で作ったものです。胸元に亡くなった人の写真、名前、亡くなったときの年齢、家族が書いたメッセージが貼りつけられています。

 どのパネルにも共通してあるのが、靴です。奏子・周子のものは二人ともたまたま運動靴なのですが、「生命のメッセージ展」の会場では、人型と一緒に靴があります。それは若い女性が履いていたスラッとしたブーツであったり、パンプスであったり、下駄、ウォーキングシューズ、オートバイをこよなく愛した青年が履いていた重たいライダーズブーツ、ワンダーフォーゲル部に所属していた青年が履いていたハイキング靴…。本当にさまざまな靴があります。靴というのは亡くなった人たちが生きていた証だと私たちは思っているのです。

 他のパネルも紹介したいと思います。20歳の青年になりますと見上げるような立派な体格になっています。暴走車に後ろから襲われて20歳で亡くなられてしまいました。彼のトレードマークはどこの会場でもいつも紫色のマフラーを首に巻いていることです。事故の当日の朝「どぉや、彼女がプレゼントしてくれたんだ」というふうにご両親に自慢していたマフラーだそうです。

 おそろいの草履は、名古屋に住んでいらっしゃったご夫妻が履いていたものです。夫婦が家を留守にしていたときに泥棒が入りました。ただの泥棒ではなくて、覚醒剤を常習的に使用していた泥棒です。そしてまだ泥棒が物色中にご夫妻が戻ってきて、驚いた泥棒がこともあろうに包丁を振り回して二人をめった刺しにして殺してしまったという、殺人事件の被害者が履いていた草履です。「理不尽に命を奪われてしまった」という一言だけが参加資格なのです。ですからいわゆる世間で認知されている凶悪犯罪や交通事故だけには限られません。医療過誤の被害者や大学に入っての新入生歓迎コンパでアルコールの一気飲みを強いられて急性アルコール中毒で亡くなってしまった青年も参加されています。

 この15歳の少女は憧れの高校に入ることができて、全国的にも優秀な成績をおさめている吹奏楽部に入部することができました。でもたった3カ月の間、同級生でもあり同じクラブ活動仲間でもあった3人の女子高生から執拗ないじめを受けて、もはや自分は生きていないほうが良いのだと、自らの命を絶ってしまいました。いじめの被害者も参加しています。

 この男の子も15歳です。15歳から18歳までの少年たち9人が2時間半にもおよぶリンチをこの少年一人に対して行い、命を奪われてしまいました。

 この3歳の女の子は名古屋の保育園に通っていたのですが、その保育園の園舎の屋上にあった駐車場から誤っておじいさんが車をバックで発進させてしまい、柵を突き破って園庭に転落してしまいました。そして転落した車の下敷きになって、この子は短い生涯を閉ざされてしまいました。確かにお酒を飲んで運転することとは違って、本当にこのおじいさんはわざと危険な運転をしたわけではなく、不注意で事故を起こしてしまったかもしれません。でもご両親が大変ショックを受けられたのは、娘の命を奪った加害者に言い渡された刑罰が、たったの罰金50万円だったことでした。

 この3人のパネルはどこの会場でも仲良く並んで展示されています。同じ鳥取大学に通っていた仲良し4人で倉敷のチボリ公園というところにクリスマスのイルミネーションを見に行った帰り、飲酒運転の車にトンネル内で正面衝突されて3人の命が奪われてしまいました。

 ひとつ名物となっているものが、この「生命のメッセージ展」にあります。入り口付近に置いてあるのですが、来場される方お一人お一人に、7-8センチぐらいの長さの赤い毛糸を一本ずつお渡ししています。「命の大切さを感じていただけるのでしたら、この赤い毛糸をつなげていっていただけますか」、というふうに結んでもらっているのです。こうして、いろんな人に結んでもらって各会場をまわっていくにつれて、どんどんどんどんこの赤い毛糸玉がひとまわりずつ大きくなっていくのを私たちは楽しみにしています。

 そしてその赤い毛糸玉、ちょうど1年前の5月17日から19日、永田町にも持っていきました。政治家の先生方、そして霞が関の中央官庁で勤めていらっしゃる役人の方々、なかなかお忙しくて、どうしても犯罪や交通事故というものを全容で取り扱ってしまう、つまり、統計、数字の羅列で扱ってしまう傾向が強い方々と私たちは常々思っていました。仙台育英学園高校の事故でも、「15歳の高校1年生3人が亡くなりました」と言うのと、細井さん、三澤さん、斎藤さん、その一人ひとりの性格や生い立ちを知って写真も見て、「こういう若い人たちが亡くなってしまったんだ」ということを知るのとでは、全然人の命の重みの感じ方が違うと思われました。
 お忙しい中、国会議員の先生方にもたくさんお越しいただきました。実は当時の小泉総理大臣、来場されるのは2回目だったのですが、その1回目のときにこんなことをご挨拶でおっしゃってくれました。「かつて日本は“世界一安全な国”と、よその国からうらやましがられる存在でした。今一度、世界一安全な国日本を取り戻すために、私たち政治家もそして国民の皆さん一人ひとりもやらなければいけないことがある、と感じました」とおっしゃっていました。

 まだまだたくさん紹介したいところなのですが、実は「生命のメッセージ展」、2001年の3月から第1回目を開催して、その1回目の開催のときには、この等身大の人型のパネルの数はわずか16体でした。一番最近の開催で展示されたパネルの数は120を越えています。残念なことに、これからもこの「生命のメッセージ展」で展示されるパネルの数は増えてしまうのかなと思っています。

 そんな中で、今日、岩手県二戸市に住んでいました大崎涼香ちゃんという女の子のお母さん、先日の日曜日新幹線に乗って二戸から仙台の街頭署名活動に手伝いに来てくださったお母さんが書かれた文章を読み上げさせてください。

 「大崎涼香 7歳 岩手県。“わたしはクリスマスがたのしみです。わたしはふゆがだいすきです。ふゆはたのしみがたくさんあります。またらいねんもたのしみがくるといいな。”娘が小学校で作っていた12月のカレンダーには、一年生らしい言葉と、サンタさんからプレゼントをもらっている嬉しそうな姿が残っています。
 涼香(りょうか)。涼風のように心地よくたくさんの人を幸せで包んでほしい。そんな想いを寄せながら生まれてきた小さな生命を抱いて、わたしたちはとても幸せでした。カッコウの声が響き、草木が香る5月の対面でした。それから7年、勉強、体育大好き、かけっこ得意の明るい子に成長していき、できるまで頑張る芯の強さ、思いやりの深さは、出会う人に勇気と元気を与えてくれました。
 2000年11月28日、集団登校中の9人の列に飲酒運転の軽トラックが突っ込み、2人が死亡、6人が負傷する事故が、静かな町で起きました。直撃を受けた1年生の涼香は6年生と4年生の2人の兄の目の前で、体を少し震わせただけで一言も発することはありませんでした。そして楽しみにしていた冬を迎えられぬまま、当たり前の願いも叶わぬまま、たった一人遠い夢の国へ逝ってしまったのです。
 涼香がいない初めてのクリスマスの日に、4年生の兄が言いました。『サンタさんがいるなら、プレゼントに涼香を持って来てほしい。あとは何もいらない』と。あれからずっと、寂しさと悔しさを抱えたままです。
 6年生の兄は、妹を助けてあげられなかった後悔を今も心に残しながら、涼香が戻ってくることをずっと思い続けています。
 涼香、元気にしていますか?
 お母さんは、あなたを失って、涙は枯れるものではないということを知りました」

 残念ながら、この宮城県ではまだ一度も「生命のメッセージ展」は開催されたことはありません。でも地元の方で「いつかは開催したい」とおっしゃっている被害者遺族の方もいらっしゃるので、私たちはいつの日か、この学校の生徒さんたちにもご家族の方と共に宮城県で開かれる「生命のメッセージ展」にご来場いただいて、赤い毛糸を結んでいただけたらなぁと思っています。

 今日はあの事故に遭遇してしまった3年生の生徒さんたちもいらっしゃる中でお話しさせていただく、ということで、普段あまり高校ではお話ししていないことなのですが、ちょっとだけ被害者、あるいは心の傷を抱えてしまった者として、何をこれから大切にできるかということをお話しさせていただきます。
 私たちは2000年からいろいろな所の小学校、中学校、高校、大学などで、さまざまな人たちを対象にお話しさせていただいています。1回目の授業のときには、小学校5年生60名を対象に図書室をお借りしてやりました。当初は、校長先生も、担任の先生も、私たち自身も、小学校5年生である10歳、11歳の幼いお子さんたちにどこまで生々しいお話しをして良いものかと、ちょっとためらわれるものがありました。でも、回を重ねていくにつれて、毎回、聴いていただいた生徒さんたちに作文を書いてもらうにつれて、小学校高学年以上はしっかりと私たちの話していること、たとえ法律のことであったり裁判のことであったりでも、よくわかってくださっているなあ、と感じるようになって、もう今はあまり遠慮していません。

 この写真も、いつも授業でも説明しています。事故の翌日の朝日新聞の朝刊に載った記事です。その中の写真をよく見ていただきますと、私たちが乗っていた乗用車のヘッドライトが片方だけ点いているのがわかるかと思います。当時私は途中から主人と運転を交代してハンドルを握っていたのですが、この事故が起きたのはまだ3時半ぐらい、まだまだ外は明るい時間帯で、高速道路を、ライトを点けながら走っていたわけではありませんでした。おそらく大型トラックに追突されてしまった衝撃で、ポンと点いてしまったのだと思います。そして追突される直前まで私以外の家族3人は眠っていたのですが、大きな衝撃だったので、みんなワッと飛び起きました。大きな声を上げていました。何が起きてしまったのかもわからない。でも本能的に逃げなければと思いました。逃げようと思ったのですが、ドアは開かなくなってしまっていました。窓から逃げようと思って、私のほうのパワーウインドウのスイッチを押したら、たまたまこのヘッドライトが点いているようにまだ電気がつながっていてくれて、窓がスルスルと降りてくれました。そうやって私だけはほとんど怪我を負うこともなく、するりと車から出ることが出来ました。もし、このヘッドライトが点いていなければ、点かなくなってしまっていたら、後ろにいた娘たちだけではなくて、私も、あとから引っぱり出された主人も、それから私は当時妊娠8カ月の身重の身だったのですが、お腹の中で順調に育っていた3番目の小さな命も皆、この日、高速道路上で終わってしまっていたと思います。運命を分けたのは、本当に紙一重なもの。何故私たちだけが助かってしまったのだろう、何故あの子たちはこんな形で命を奪われなければいけなかったのだろう、というふうなことは、未だに、私たちも答えが見つかりません。

 ほとんどのものが焼けてしまった中で、ある物が運転席の真後ろにあたるところから見つかりました。小学校で授業をすると、意外と子どもたちが「わかった、わかった」と手を挙げられるのですね。皆さんはちょっとご縁がなかったかもしれません。これは次女周子が座っていたチャイルドシートのバックルです。バックルだけが金属で出来ていたので焼け残っていました。3点固定式のチャイルドシートといって、この留め金にめがけて2つのシートベルトをカチャンカチャンとはめるようになっているのですが、2つのシートベルトが、はまったままの状態で焼け残っていました。周子は最後までシートベルトをしていました。これを見たときに私たちが思ったのは、私たち親は小さな命を授かったときから、小さな子どもに向かって毎日口をすっぱくして「車に気をつけなさい、シートベルトをちゃんと締めなさい、おとなしくチャイルドシートに座っていなさい」ということを繰り返していました。そして子どもは大人たちから教わってきたルールをちゃんと守っていました。何の落ち度もなかった。ルールを守れなかったのは、34年間も職業として大型車を運転していたプロのドライバーのほうだった、ということを改めて思いました。

 小学校の授業ではこんな写真も見せています。火傷を負った主人の体です。今日も、皆さんの前で主人が当然のことながら服を着てお話をしている限り、お見せすることはできないのですが、背中から左腕にかけて大やけどを負いましたよ、と口で説明できるのですが、なかなか怪我というものはお見せすることができません。ちょうど服で隠されてしまっています。前から見ていただきますと、お腹のあたり、色が変わっている赤いところは、直接火で焼かれてしまったところではないのですが、その後7回手術を受ける中で、重度のやけどでしたので、植皮、つまり健康な皮膚を、ほかのところからはぎ取って移し替えるという手術を受けなければいけませんでした。そのために、はぎ取ったところはこうやって色が変わってしまっています。後ろをご覧に入れますと、こんな感じになります。7年半経った今も、ケロイド状になってしまった部分、色こそは少し薄くなっていますが、あまり状況は変わりません。そして体の約50%が何かしらの形で傷ついてしまっているのですが、その部分からは汗が一滴も出なくなってしまっています。やけどというのは、私たちも被害を受けて初めて知ったのですが、一言で言えば、永久に完治しない怪我だ、ということがわかってきました。体の傷はこうやって皆さんに見せることができるのですが、心の傷というものはやはり私たちは生涯癒えることはないと思っています。

 心の傷を少しでも癒していくために必要なこと、2つだけ感じていることを話しておきます。
 このおバカな家族写真。なんでこんなものを見せているかというと、こんな写真も見せながら、亡くなった人のことを語り合える、何年経っても語ることのできる相手、よき理解者、同じ事故に遭遇していなくても、その相手というのは構わないと思います。皆さんのご家族にそういうよき理解者がいるかもしれません。あるいは全く見知らぬ、事故のあとに知り合った人かもしれません。そういう人を見つけられること。それから、亡くなった人のことを生涯にわたって、くり返しくり返し何度も語る場があること。その2つが、心の傷を完全に取り除くことはできないかもしれませんが、少しずつ軽くしていくことができると思っています。

 私たちの娘たちは、3歳、1歳という年齢でしたので、その同級生も、何故奏子ちゃん、周子ちゃんが、突然保育園に来なくなってしまったのか、わかるような年齢ではありませんでした。でも事故のあと、毎年毎年保育園の仲良し、お友達や先生方、保護者の方々、それから事故のあとに知り合いになった方たちと、「奏子ちゃん周子ちゃんを偲ぶ会」というのを開いています。小さな子どもたちがたくさん参加する会なので、クイズとか奏子・周子のおバカな写真とかを見せて結構笑いの絶えない会になっていますが、いつも11月の空に向けて、お空の上にいる奏子ちゃん周子ちゃんにみんなでお手紙を書いて風船につけて飛ばそうと、「天国への風船飛ばし」をしています。小さな子どもたちは大喜びで奏子ちゃん周子ちゃんを知っている子も知らない子もお手紙を書いて、こうやって風船を飛ばしてくれています。1年に1回の機会ですが、それでも皆さんと共に亡くなった人、子どもたちのことを語る機会があるということは、本当にどれだけ私たちの心を癒してくれて、救いになってくれているかわかりません。

 そういった意味では、このような行事、仙台育英学園の生徒の皆さんは来年からは直接事故に遭遇された方は生徒さんではいなくなってしまうかもしれませんが、でも、ずっとずっと皆さんの先輩たちのことを語り継いでいただけたらと思います。

 最後にもう一言だけ主人のほうから話をさせてください。


 私たちはあの事故の日以来、もう二度と、以前のような生活には戻れなくなってしまいました。そんな私たちが何よりも辛いのは私たちと同じような思いをする、悲惨な事故の犠牲者がその後も出てきてしまっているという報道を連日目にすることです。ここにいらっしゃる皆さん方も、そういう辛い思いをされている方々です。そういう意味で、皆さん方が2年前の事故を風化させることなく、これから大人になる皆さん方にずっと語り継いでいっていただきたいと思います。
 何の罪もない子どもたちが道路での規則を守らない大人の犠牲となって、輝かしい未来を断ち切られてしまう、このようなことは絶対にあってはいけません。そのような世の中は、私たち大人、そして大人になる皆さん方が変えていかなければいけない。そういう意味で今日、思いを新たにしていただければと思います。

 長い話でございました。ご静聴ありがとうございました。

 
   
感謝の言葉

生徒会長 菊地 恵莉

 この度は危険運転致死傷罪の新設などを含む憲法の改正法案成立に力を尽くされ、その活動では全国的に有名な井上様ご夫妻をお招きしての講演会、緊張と衝撃と感動を持って聞かせていただきました。本当にありがとうございました。
 また、5月19日、20日の両日は、仙台市内での署名活動にご一緒させていただきました。あいにく本降りやにわか雨に見舞われ、コンディションが万全とはいきませんでしたが、井上様ご夫妻のご熱意、パワーあふれる活動に多くのことを学びました。
 私たちは一昨年前の5月、第11回さつき祭ウォークラリー中に飲酒運転が原因の暴走車の危険運転により3名の仲間を失い、多くの怪我人を出しました。そこで私たち生徒会は飲酒運転を撲滅するために、飲酒運転を絶対に許さない法律の設備、そして自動車運転者の意識改革を願う2つの署名活動を展開し、県民の多くの方々のご支援とご賛同をいただきました。私たち生徒一人ひとりは、あの惨劇を忘れることなく、今後も車社会に対してこの思いを発信し続けてまいりたいと考えています。その意味で今日の井上様ご夫妻の講演は私たちに一層の勇気とやる気を方向性を与えていただきました。心から感謝申し上げます。
 最後に、井上様ご夫妻におかれましては、健康に十分留意され、今後とも飲酒運転撲滅にかかわるご高言やご指導で一層の活躍をなされることを祈念してお礼の言葉といたします。

平成19年5月22日 
仙台育英学園高等学校 生徒会会長 菊地恵莉
 
   
閉会の言葉

 私たちにとって、あの日の出来事は、命の尊さを再認識し、一人ひとりがどのように受け止め、そしてこれからどのように生きていくべきかを、真剣に考え続ける、忘れることができない出来事でした。そしてこの2年間は、二度とあのような犠牲を出してはならないと交通安全と、飲酒運転をなくすさまざまな運動を各地に呼び掛け、実践してきました。私たちは今日のこの日を忘れることなく、安全で安寧な社会を目指す努力を続け、必ず飲酒運転のない社会を作ることを誓い、I-Lion Dayを閉会いたします。皆さま、ありがとうございました。