Shukoh Topics 2010  
   
自由作品の部  
「そこにある」
 
石川 里奈
 

 頑固一徹。
  私の祖父を一言で表すに最もふさわしい言葉だろうと思う。  
  私と祖父は干支が同じで誕生月や血液型まで一緒である。性格について言えば、母親にまで祖父譲りだと言われた。今では筆跡まで似ているらしい。祖父は非常に勉強好きで、暇さえあれば調べ物をしている。私の参考書や資料集を手に取ることもしばしばである。そんな祖父を幼少の頃から見てきた私は、早いうちからいろいろな漢字や文学作品に親しんでいたし、勉強もずっと祖父から教わってきた。
  私には父親がいない。だがそれを一度だってコンプレックスだと感じたことはなく、会いたい、恋しいなどと思ったこともない。それらに勝る愛を母親から貰ったし、何より祖父の存在が大きかった。この十六年間、父親代わりとして私を慈しみ、育ててくれた祖父が好きだったし、同時に尊敬もしていた。
  非日常は日常のすぐ横に転がっているものだとよく言うが、それはあまりにも唐突だった。中学一年生の夏、祖父の喉にがんが見つかったのだ。真っ先に異変に気付いたのは私だった。次第に声が掠れていき、夏休みも終盤に差しかかっているというのに一向に治る気配はなく、頑なに診察を拒み続ける祖父をやっとの思いで病院へ連れて行った日、まず弟から衝撃の事実を聞かされることになる。
 「おじいさん、もう喋れなくなるんだってさ。」
 耳を疑った。他の誰に話を聞いても事実は変わらなかった。それだけではない、喉頭がんが見つかったのは今回が初めてではなかったため、声帯全摘出を余儀なくされたのだ。
 入院先へお見舞いに行ったとき、祖父の喉元はよく見ると赤く腫れ上がり痛々しかった。同時に私は後悔の念に押し潰されていた。私がもっと早く気付いていたら、もっと早く病院に行かせていたら……。ベッドの横で呆然と突っ立っている私に、祖父はただ笑いかけた。その笑顔に陰りがあったような気がして、帰りの車の中でも複雑な思いを抱いていた。
 外の世界では夏が終わろうとしていた。私は学校でも極力平然とした態度で振舞うように心掛けていた。そんな中、夏休みにお祭りに行ったという友人と話をしていたときのことである。
 「金魚すくいって、すくえないから楽しいんだよね。」
 どきりとした。「すくえない」が「救えない」という言葉に聞こえたのである。金魚すくいは「救えない」から楽しい……。そこでなぜか祖父のことが脳裏を過ぎった。不覚にも祖父は救われるのだろうかと考えてしまい、急に不安になった。その言葉は手術の日まで頭の中から消えなかった。母親から大手術だったものの成功したと聞かされ、ようやく胸を撫で下ろすことができたのである。
 術後、初めて祖父の病院を訪れた。チューブの入った祖父の喉。その光景に驚きつつも、いつものように私は祖父に話しかけた。すると祖父はボードを取り出し何か書き始めた。ああ、喋れないってこういうことなんだとそのとき初めて理解した。最初のうちこそ不慣れで戸惑うことが多かったけれど、次第にぎこちなさも和らいでいった。その後もしばらく祖父との筆談の日々が続いた。  
 退院して数日経ったのち、祖父のもとに障害者手帳が届いた。私は初めて目にするものだった。それと同時に、祖父が今後社会の中では障害者としての扱いを受けるのだと思うと、不思議な感じがした。声を失った今も、祖父は変わらず私の目の前にいるというのに。  
 しかし祖父や私たち家族に訪れた非日常はこれだけではなかった。喉頭がんを患ってから三年後、紹介状を貰って病院へ向かった祖父は難聴であると診断された。がんのときとは違い、手術の仕様がなく、特別な補聴器をつけなければいけないことが判明した。私は二歳の頃からずっと音楽をやってきた人間だったから、聴力の大切さはよく分かる。声だけでなく聴力も失うことになるなんて信じられなかった。しばらくして、祖父の世界から完全に音が消えた。  
 音のない世界というものを、私は考えたことがなかった。かの音楽家ベートーヴェンは耳が不自由だったと言われているけれど、それでも彼の頭の中には常にピアノの音があって、絶えず音楽を創り続けていたのだろう。祖父の場合は、どうだろうか。音楽を楽しむどころか、誰かに呼ばれる声やその気配にすら気付くことができない。日常生活にありふれている全ての雑音を感じることができないのだ。一歩街へ出たら、背後から迫る自転車やバイク、自動車の音に気付けるだろうか。飼い犬を連れて散歩へ行こうとする祖父の背中に訴えようとするものの、私にはどうしようもない、きっと「救えない」のだと思うとただ見送ることしかできなかった。  
 祖父の口数は次第に少なくなっていった。あるとき、祖父が何かを話そうとして口を開くと、何を思ったかすぐに口ごもってしまった。隣に座っていた私はその横顔を見ていたのだが、寂しそうな、と言っても、悲しそうな、と言っても表しきれない、そんな微笑を湛えていたのである。祖父が一度だけ見せたその素振りと表情に、私は何だか祖父の苦労や悲哀を垣間見たような気がして言葉に詰まってしまった。
  日常生活における不便さ、不自由さを一番身を持って知っているのは、言うまでもなく障害を持って生きている本人、すなわち祖父であろう。では祖父は私たちに何を望んでいるのだろうか。自分の口となり耳となることだろうか。いや、きっとそうではない。私が見る限り、祖父はそんなことを考えているのではない。声や聴力といった自分の音を失った今も、祖父はほとんど何も変わらず毎日を生きている。朝は誰よりも早起きして飼い犬と一緒に散歩へ行き、帰宅すると新聞を読む。日中は本を読んだり調べ物をしたりする。夕方には風呂掃除をして、学校や習い事で帰りが遅い私を駅まで迎えに来てくれる。そんな日々。そんな日常。もしかしたら、音のない世界で生きていると思っていた祖父の頭の中には、私や私の家族の声があるのかもしれない。あるいは日常生活のあらゆる音が聞こえているのかもしれないと、そう思った。  
 祖父は祖父だ。何事があろうとも、私の祖父であることに違いない。その事実だけではなく、おそらく内面も。相変わらず頑固で、熱中しすぎると周囲が見えなくなるほどにのめり込む。昔と今とで変わったところを強いて挙げるのなら、昔よりもよく笑うようになったことだろうか。私は何よりもその笑顔に救われているのだ。世間の目には、祖父の穴の空いた喉元や人一倍大きい補聴器、そして祖父の姿がどう映っているのかは分からないが、それらは祖父が祖父であるという本質的なところには何ら関係していないのだ。そのことを知っているからこそ、私自身も変わらずに祖父や家族と過ごせているのだと思う。そして時折、あの微笑を湛えた祖父の横顔を思い出し、ふと立ち返るのだろう。  
 祖父と一緒に生活する中でふと思ったことがある。なぜ人は互いに壁を作り合って生きているのだろうか、と。人と人との間に介在する見えない壁。意識的に、あるいは無意識のうちに作り上げられてしまったものであり、本来ならば存在しなかったはずだ。疎外すると言うより相手との適度な距離感を保つため、あるいは自分を守るための策だとも言えよう。しかし時に人は分厚い壁を作ってしまうこともある。特に健常者と障害者の間には、差別や排除と言った意味が少なからず含まれている。また過度の自己防衛こそ危険性を孕んでいるものだ。私はその壁を壊すのではなく乗り越えていくべきではないかと思う。障害の有無に関わらず、あるがままに、自分らしく生きようとする姿勢を互いに理解し、認め合う。それこそまさに、私たちが社会の中で共存して生きるために、またバリアフリーを実践するために大切なことなのではないかと思う。
 今年の夏ももう終わりだろうか、夜風の涼しさと共に日が短くなっていくのを感じる。時刻は既に八時を回っていた。駅の自転車置き場を通り抜けると、飼い犬を抱いて立っている祖父の姿が見えた。私が「ただいま」を言うより先に、祖父は私に「おかえり」と口の形だけで伝える。すると飼い犬まで「おかえり」を言わんばかりに尻尾を振り祖父の腕の中で暴れている。私は祖父の隣に並んで夜道を歩く。たまにちょっとした会話を交わすこともあるのだが、お互いに特に何も話さず帰路につくことの方が多い。それでいいのだ。特別な言葉は何もいらない。自分を温かく迎え入れてくれる、いつでも帰ることのできる場所がそこにあるのだから。

 
   
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